元プロテニスプレーヤーの杉山愛が、体も心もリフトアップするオトナ女性のための「ウィスパー体操」動画に出演しました。
P&Gジャパンの吸水ケアブランド「ウィスパー」のYouTube公式チャンネルで公開されているものです。
“くびれ母ちゃん”として人気の姿勢改善トレーナー村田友美子と、オンライン会議をしながら制作。
1日15分行うだけで骨盤底筋を引き上げる効果が期待でき、腹のくびれや体のこわばり、ゆがみ、20代以上の2人に1人以上の女性が経験しているUI(尿もれ)にも効果があるといいます。
今回は、杉山愛について詳しく調べてみることにしました。
杉山愛の出身高校や経歴は?
まずはプロフィールを紹介します。
名前:杉山愛
読み方:すぎやま あい 生年月日:1975年7月5日 年齢:44歳 身長:後述 体重:後述 出身地:神奈川県 |
杉山愛は歯科医師の父親と、母親の芙紗子の間に3人姉妹の長女として生まれました。
スポーツ好きの両親の勧めで5歳から器械体操、フィギュアスケート、クラシックバレエ等の様々なレッスンを習っていました。
テニスもその中のひとつで、杉山愛が7歳になりテニススクールにも通うようになると、それまでの習い事とは明らかに違う入れ込みを見せるようになりました。
その熱中ぶりは当初週2回で始まったレッスンもすぐに2つのスクールを掛け持ちするようになり、レッスンが無い日でも一人で壁打ちを続けるほど。
小学2年になると、近所にアメリカの名門テニススクールとして名高いニック・ボロテリー・テニスアカデミーの藤沢校が開校。
同年にこのアカデミーの入校試験に合格し、選手コースの一員となると、以降ピアノ以外の習い事を全て辞め、本格的にテニスに取り組むようになったとのこと。
杉山愛は、湘南白百合学園中学校入学後の中学1年時に全国選抜ジュニアテニス大会14歳以下で全国大会レベル初優勝を果たしました。
さらに、1990年には15歳で全日本ジュニア18歳以下シングルス準優勝を果たしました。
テニスアカデミーへ通い始めたときからプロへの憧れはありましたが、プロでやっていけるという自信を持ったのは,15歳のときだったようです。
これらの活躍により、同年の全日本テニス選手権に主催者推薦で出場すると4回戦まで進出。
その後、テニスを優先するためにあらゆる面で支障が多かった湘南白百合学園高等学校への進学を諦め、湘南工科大学附属高等学校体育コースに入学。
ここでは1年時に早くも高校総体シングルス決勝で、同じ高校の同級生だった吉田友佳を下し優勝した。
ITFジュニアサーキットも本格的に転戦するようになり、1991年全豪オープン、1991年全米オープン、1992年ウィンブルドン選手権でそれぞれシングルスベスト8進出の成績を収めたのです。
さらには、1991年5月には日本人選手として男女通じて初のITFジュニア世界ランキング1位を記録する等、早くから国際的に名の知られたトップジュニアの一人となっていました。
また、1990年9月のニチレイ・レディースではダブルスで道城まみと組み、主催者推薦でツアー初出場。
1回戦でエミー・フレージャー&小泉幸枝(日本)組にストレートで敗れています。
翌1991年には全豪オープンシングルス予選で早くもグランドスラムに挑戦しましたが、この時は予選1回戦で試合前に棄権。
4月にはジャパン・オープンでツアーシングルス予選に初出場したが、1回戦でヤユク・バスキにフルセットで敗退しました。
1992年はミズノ・ワールド・レディースで予選を勝ち上がりツアーシングルス本戦初出場を果たすと、1回戦でも雉子牟田直子をフルセットで下しツアー初勝利を手にします。
続く2回戦では第4シードの伊達公子とに挑戦しましたが、フルセットで敗退。
同年10月に17歳3ヶ月でプロ転向。
この年のWTAシングルス年度末ランキングでは180位で終了しており、全日本女子シングルス年間ランキングでも10位につける等、既に日本トップ選手の一人となっていました。
しかし、学生生活の方はテニスでの活躍と反比例する形で上手く回らなくなり、結局高校2年で湘南工科大学附属を退学。
- 同校が出欠に厳しく、加えて出場機会が増していたプロの試合では公欠が認められなかった。
- 世界ツアー転戦のための費用捻出の必要性から、プロ転向によるスポンサー契約の獲得を望んでいた杉山側に対し、湘南工科大付属側はあくまで所属を高校名にすることを求め、在学中のプロ転向を許可しなかった。
このような事から、湘南工科大学附属を退学せざるを得ない状況に陥ってしまったのです。
その後杉山は神奈川県立湘南高等学校通信教育課程に転向。
杉山はツアーの合間を縫いながら勉学にも励み2年で同校を卒業しています。
プロ転向後最初の年となった1993年は箕輪宇明をツアー帯同コーチに付け転戦を開始。
翌年にはノーシードで出場した2月のミズノ・ワールド・レディース準々決勝で自身初のツアーベスト4に進出すると、4月のジャパン・オープンでは道城まみと組み主催者推薦で出場したダブルスで初のツアー優勝を果たしました。
1995年にはツアーで単複共トップ50に到達し、前年に引き続き好調なシーズンを送り、フェドカップにも日本代表に初選出。
また、ドイツ・フライブルクで行われたワールドグループI1回戦、対ドイツ戦のダブルスで伊達公子とのペアで起用され、代表デビュー戦を勝利で飾っています。
1998年には全豪オープンを含む7大会でベスト8に進出し、年末最終戦チェイス選手権への初出場を果たす。この活躍により年度末ランクは13位まで上昇しました。
1999年にはグランドスラムダブルス優勝・シングルスベスト8に進出。
2000年、杉山愛はこの年からコーチを丸山からマリー・ピエルス、アマンダ・クッツァーらのコーチを歴任してきました。
さらに、25年振りのグランドスラム女子ダブルス優勝を果たしました。
この年は他に4月のマイアミ・マスターズと10月のクレムリン・カップの二つのティアI大会を含むツアー6勝を、またナタリー・トージアとのペアでも1勝を挙げ、年間7勝を記録。
この活躍により10月には日本人選手として初めてWTAダブルスランキング1位になり、年度末ランクでも1位でシーズンを終えました。
シーズン終了後からデヨングに代わり芙沙子がコーチを務める事が決定し、親子二人三脚のツアー転戦が始まる事となりました。
2001年、芙沙子がコーチに就任して最初の年となりましたが、ウィンブルドン2年連続決勝進出。
2003年はシングルス・ダブルス共にキャリア最高の成績を収めることとなる。
自己最高のシングルス世界ランク10位に上昇し、伊達公子(自己最高ランキングは1995年の4位)以来2人目のシングルストップ10入りを果たしました。
さらに、翌2004年2月には世界ランキング8位となり、自己最高位を更新しています。
2006年 全仏準優勝、2007年 2度の4大大会決勝進出。
2009年9月9日、杉山愛は同月27日からの東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント出場を最後に、今シーズンを以て現役生活にピリオドを打つことを表明。
引退後の杉山は、テニス普及活動等を進める傍ら、テレビのテニス中継の解説者を務めたり、情報番組のコメンテーターとして出演する機会が増えています。
2011年11月3日に6歳年下の一般男性と結婚したことを発表し、2015年7月8日、第1子男児を出産。
杉山愛の身長/体重は?
一般的にテニスのプレーでは身長は高い方が有利とされています。
杉山愛は身長163㎝、体重55kgです。
因みに世界の実力ある選手、マリア・シャラポワは188㎝、大坂なおみは180㎝。
男女共に大型化の進むプロテニス界において決して恵まれたものではありませんでした。
それでも世界で好成績を残しており、ダブルスで鍛えたフットワークの良さとスタミナの高さでそのハンデを補ってみせました。
杉山愛の年収も調査!
WTA自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス1位。
日本人選手として初のWTAダブルス世界ランキングで1位を獲得。
ギネス記録も保持しており、日本を代表する杉山愛の年収は8000万円でプレイヤー生涯年収はおよそ8.1億円(812.8万ドル)と言われています。
引退後の年収については詳細はわからなかったのですが、独自でジュニア育成プロジェクトを立ち上げ、テニスの普及活動、日本の実力の底上げに貢献しています。
さらに、テニス関連の番組や解説はもちろん、バラエティ番組でも活躍しているので安定した収入は得られていると思います。
今回公開された、女性のための「ウィスパー体操」動画ではテニスの要素も取り入れられた体操を実践している点も見どころのようです。
気になる方はぜひチェックしてみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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